京都の絽刺し教室、九保九工房。日本の伝統工芸「絽刺し」を気軽に楽しめます。初心者の方も大歓迎です。

絽刺しは中国の三大刺繍の一つとされており、蘇州汕頭と共に盛んに作られた時代がありましたが、
絽刺しの存在は徐々に薄くなり、今日では数限られた人たちにより継承されています。

日本の地にいつ頃伝来してきたかはまったく分かりませんが、奈良の東大寺建設の折に、絽刺しで
作られた仏像用の敷物が献納されており、その一部が今も東大寺に残っているらしいのです。

絽刺しは日本では徳川時代、禁裏の上臈達の手慰みとして、佐賀錦などと同様にたいそう流行した
もので、公卿絽刺しと呼ばれたほどです。

その当時の作品を見ますと、着物や羽織にする絽の布に直接刺していたようです。
・天皇家でも香淳皇后様が桧扇紋様の絽刺しの大作を六曲屏風に遺されています。
・常陸宮華子様の衣装の中にも牡丹柄の絽刺しを仕上げた帯があると聞いています。
・徳川慶喜公の三女、榊原喜佐子様は著書の中にて母親が絽刺しをしていることを回想しています。
・九保九工房では常陸宮華子様の御注文を頂いていました。

徳川幕府の大奥や大名家にも伝え広まったようです。
・尾張徳川家19代当主、徳川義親の妻の徳川米子が、絽刺しの会で糸栄会を発足させています。
・糸栄会はかなり精力的に絽刺しを展開しました。米子没後は衰退しましたが、後の絽刺しに
多大な影響を及ぼしています。

明治時代に入り絽刺しは一時廃れましたが、大正時代に入り復活を果たし広く一般に親しまれ、大正・昭和初期には絽刺しをあしらった帯や着物が婚礼のお支度に入ることがステイタスとされ、特に珍重されたとのことです。
・絽刺しは女性ばかりではなく、男性の間でも煙草入れや楊枝入れ、財布にまで流行し、伊達男の持ち物として親しまれました。
・先の大戦末期までは町の刺繍材料店でも手軽に絽刺しの材料は手に入りました。
・日本赤十字社病院の前身、陸軍・海軍病院の売店にも絽刺しキットになって販売されていました。
これは傷病兵の人たちに親しまれていました。
・旧制の女学校でも絽刺しは教科に入っていたとのことで、結構、絽刺しを習ったことがあるという御婦人に出会うこともあります。

戦後の混乱期には絽刺しの材料店も多くの職人も、転業や廃業に追い込まれてゆき、そのほとんどが
失われましたが、東京駅八重洲口の越前屋さんだけが、今でも絽刺しコーナーで糸や木枠、針などを
販売しています。また、絽刺しの仕立ても取り扱っています。

絽刺しは途絶えてしまったわけではなく、各地で絽刺しの先生方が活躍しております。
九保九工房もこの尾張徳川家の流れを継いで現在に至っているものです。